浅草神社例大祭
(三社祭)

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三社(さんじゃ)のいわれ
 浅草寺(せんそうじ)縁起によると、今から1350年ほどの昔、隅田川で漁労に精を出していた桧前浜成(ひのくまはまなり)竹成(たけなり)の兄弟が漁網の中から一像を持ち帰り、土地の文化人である土師真仲知(はじまなかち)に一見を請うた処、土師はこれは尊い聖観音像であり、自分も帰依するところの深い仏像であると、二人の者にその功徳を淳々と説き、自邸に堂舎を構えて寺とし、三人共々厚く聖観音像をおまつりするようになったという。
 これが浅草寺の起源であり、後世この三人が浅草の開拓者として、三社大権現の尊称を奉られ祭祀されるようになった。これは権現思想(仏が神の姿をかりてあらわれる神仏同体説)の流行しだした平安末期(約700年前)だろうといわれる。
 その後明治6年三社権現の名称は廃され、現在は浅草神社と呼ばれている。その大祭の御輿渡御(じんよとぎょ)は江戸第一の荒祭として浅草人の血を湧かせ、その賑わいは府外随一として全国に喧伝された。また、現在の社殿は徳川三代将軍家光が慶安二年(1649)に建立寄進した。江戸初期の代表的権現造り建築で、幾多の災厄をのがれ、国の重要文化財に指定され、昭和38年に多額の国費の補助を受け創建当時の姿に修復された。

昔の祭礼(観音祭・船祭)
 昔の祭りは、3月17日、18日の両日に行われ、丑、卯、巳、未、酉、亥の一年おきが本祭で、正和元年(1312年)から三社の神話に基づき、船祭りが始められたと言われています。
 江戸時代には大祭前夜、御輿を観音本堂の外陣に安置し、びんざさら舞も堂前の舞台で行われた様に、浅草寺と一体となった祭りで、「観音祭」または「浅草祭」と呼ばれていました。昔の氏子は観音の縁日に因み、18ケ町ありました。

 この中で、材木、花川戸、聖天を宮元3ヶ町と呼び、すべてを総称して浅草郷とも、千住郷とも言いました。祭礼は今の様に本社御輿をかつぎ廻ることよりも、むしろ氏子18ヶ町や、片町、芽町、天王町、黒船町、三好町から繰り出された山車が中心で、各町がそれぞれの趣向で行列の勢いと絢爛さを競い合った様であります。このように昔の祭礼は、蔵前筋や浅草橋の各町にまで及ぶ広範囲のものでした。

 祭礼当日の早朝、山車を中心とする祭礼行列は、浅草見附の御門外に集合し、御蔵前から諏訪町、並木町と進んで、仲見世から境内に入り、観音堂に安置された御輿の前に参詣の上、それぞれの芸能を演じ、随身門(二天門)を出て自分の町へ帰りました。これが終わると「お堂下げ」と言って御輿三体を本堂から降ろし、一の宮を先頭に浅草御門の乗船場までかつぎ、待機していた大森在住の漁師の供奉する船に御輿を乗せ、浅草川(隅田川)を漕ぎ上がって、駒形から上陸し、本堂にかつぎ帰ったと言われております。この船祭りは江戸末期まで続きました。明治に入って廃絶し、明治5年から5月17、18日の両日に祭礼を行い、現在の氏子各町に御輿の渡御を行う様になりました。

今の祭礼
 氏子の四十四ケ町と浅草組合で構成される浅草神社奉賛会により運営されていますが、交通事情や各町の情勢変化で、慣例どおりの5月17、18両日の大祭執行が不可能となり、昭和38年から17、18日に近い金曜日に神輿御魂入れ、土曜日に氏子各町神輿連合渡御、第3日曜に本社神輿の各町渡御を行い、例大祭式典、びんざさら舞奉納などもそれに伴い日程が動く様になりました。
 なお、浅草警察署の発表による平成11年の三社祭の人出は、3日間で2,500,000人と言われています。

神  輿
 戦前、浅草神社には新旧七体の神輿がありましたが、戦災で神輿庫が焼け、惜しくも全部消失しました。現在の神輿は氏子四十四ヶ町により、一の宮と二の宮が昭和25年に、三の宮が昭和27年に奉納されました。

三社祭アサクサモケイ
浅草神社 参道

周辺道路が大変混雑します。電車・バスなどでおいで下さい。
当店前も<お祭り広場>歩行者天国 になりますので、お車の駐車などは出来ません

<お祭り広場> 歩行者天国 5月19日(日)11時~18時 雷門通り・馬道通り バス停が移動します(天候などにより、時間が変更になる場合があります) 
浅草神社(三社様)

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東京・台東区 アサクサモケイ